昭和46年03月24日 朝の御理解
御理解 第1節 「今、天地の開ける音を聞いて、眼を覚ませ。」
どういう事か分からないと云う、この御理解第一節ほど分からない御理解は無いと思うですね。今、天地の開ける音を聞いて、眼を覚ませ。天地の開ける音と、そういう様な音があるとは思われませんしね、天地が開ける音と、しかも眼を覚ませと。これは私は、どういう事だろうかと思うですけれども。
(聞き取れません)
信心をさせて頂いて、おかげを頂こうと、こう言う、例えば、ことでは、天地の開ける音を聞いて( ? )分かっているのでしょうけれども、結局私共の を持たないと云うことが ( ? )聞き取れません( ? )信心と云うのはいよいよ自分の それを求めて行けば行く程いろんな事が分かりますけど結局は自分の心に( ? )そこのところを( ? )そこからいわば身に付いて行くどんなに分かってもどんなに信心を( ? )私自身が分かったと云うことは( ? )天地の開ける音を聞いて眼を覚ました者の姿では無かろうか。そこから教えを頂く。 人間の心の汚さと云うかね、もう何処までこの汚いものが、深く、心の中にあるかと云うことを感じました。普通一般に云うたら汚い事ではないけれども、やはりそういう信心の眼を以ってみたところの汚さ。その方ご自身がお医者様をなさっておられる。息子さんが、今度お医者になる為の大学に行かれるために、何回も何回も滑られた。それで今年もそのお願いに見えられた時を同じゅうして、その人の里の方のお店が破産状態になっておった。試験を受ける人のお母さんの里ですね。
その時に五百万お金が有れば、なんとか立ち直りが出来ると言うのである。ところがその五百万のお金が用意して有ります。兄弟の家ですからそこに借りに行ったところが、里の事ですからしてもやりたいと、こう思われたでしょうけれども、なかなか五百万と云や大金、それで私は、その事をお取次させて頂きましたら、大学に滑った時にまあ云うなら、裏口から入学と云う風に、そういう事ではないかと、思うのですけれども、五百万という金を積めば、入られると云う事だったらしい。
だからその事はもう主人も、今年はどうでも入れて貰わんならんから五百万円使うてからでも学校に入れようと言う腹もあった。そこで私はねその五百万円をね、里の方に只でやれとは言わん貸しなさいち私は言うた。もう大学受験絶対間違いないと。私もまあ色々、こんなに断言して言うたことはなかった。だから親戚の人が、合楽の先生が断言して言われるのだから、それを里に貸してやってくれんかと云うて相談に行って、随分迷いましたけれども、やっぱりとうとう貸しませんでした。
私は思うんですね、例えばその五百万円で、自分の里が助かる。同時にはっきりとほんなら、念願であるところの子供の入学も、絶対間違い無いと神様が云うて下さる。自分の方もおかげならいわば里の方も立ち行くと云うおかげになる。いよいよ落ちた今年はどうしても五百万使うてでも入学させよう。ところがその金には云うならば、五百万円使うて入学させて貰うたならば惜しくない。けれども里の方にそれはやるのじゃない、只でやるのじゃない貸すのである。
けれどもそれはやはり惜しい。引っかかるかも知れん。とうとう貸さんなりしまえました。それでもやはりその子供の入学の事だけは、おかげ頂かにゃでけませんから、まあ遠方からですけれども、お参りをして来ては一生懸命お願いなさいました。もう一週間位前でしたでしょうか。その発表があったのですけれども。電話がかかって参りましてね、おかげで入学がでけたと云う。
いわゆる五百万使わんで済んだ訳です。試験がでけなかったと云うて、そこから信心が本気になっていく人が多いですねえ。おかげを受けたら電話でどん御礼させてから、まあ昨日は霊祭でしたから霊祭にお参りして、ほんに子供を連れてから御礼参拝して来て居りました。まあ人間ちゃ私昨日お初穂を整理さして頂きながら二、三人さして頂きながら、人間の心の中に動いて居る汚いものちゃ、どうにも仕様がなかなと云うて話した事でした。もしでけてなかったら五百万円でも出そうかと云う者が。
段々段々少のうなってしもうておる。そして御礼参拝して、まあ僅かばかりの金をお供えすれば、それでまあ済む。私が帰りの車はあるから、まあその車で帰りなさいと云うたけれど、もうお礼に出てきたからもうそれこそ、けそけそとしてから帰ってしもうた。まあちっと心がとがめるのでしょうねえ。本当にその金で里が助かり、主人も息子もおかげを頂く。そりゃ神様と云う方はいわば無理が利かれる。
云うことは聞かぬでもです、それをどうでもと願や、やはりおかげも下さる。おかげも下さるけれどもですそれでは、只試験がめでたく合格のおかげを頂いた。さぁ合格したことが、これから先またおかげになるやらならんやらも分からん。昔話にある山越えをするのにどうでも、今日中にこの山を越さなければならない。もう夕方になったけれども、その山越えをすることになった。
丁度道連れに関取であってその関取と二人で、まあ旅は道連れで道連れになった。こういう大きなこういう立派なお相撲さん。同時に力の強い人と一緒なら道も安心だと。ところが山中でそのおいはぎが出た。いわゆる山賊である。いわば身ぐるみ置いて行けという、お定まりの事になった。その時にその相撲さんが居りましたおかげで、まぁおかげで助かった。そん時にやはり山越えしたその人が思うた。
ほんとにもし今日はこの人と一緒でなかったならばね、それこそもう命がなかったかも知れん。いや持っておる金を全部盗られたに違いはない。この人のおかげで助かった。まあ江戸の人だったらしいですね。今度江戸に帰ったら、今日ここに持っているお金の半分ぐらいは、お礼に持って御礼に行こうと心に思うた。段々又道を歩いて居るうちに、その助けて貰った時に半分位は持って行こうと思いよったところが、今度は四分の一位そげんまでは要るめえ。
もう四分の一ぐらいでよかろうち言う風に段々思いが変わってきた。もう向こうに着いてしまった頃には、旅は道連れ世は情けち云うてから、やっぱ向こうも自分が道連れになったことでよかったつじゃから、まあ云うならば、もう同じことだと、だからまあ十分の一ぐらいにしようち心の中に思うた。それからまた江戸に帰ってから、あげん思いよったばってんから、と言うて、とうとう言葉の挨拶にも行かなかったと云う、まぁお話なんですけどもね。
人間の心の中には、どうしてそういう汚い心があるだろうかとこう。五百万は百万でもええ、百万は十万でもええ、十万がもう一万円ですら惜しゅうなる。私共が、ほんとにおかげを頂くと云うこと。もういよいよ自分の心の中にです、和賀心を頂くと云うこと。和らぎ賀こぶ心を頂くと云うこと。それが私自身が助かって居ると云うことである。心が限りなく美しゅうなると云うこと、その事がもう私が助かって居ると云うことである。おかげは和賀心にありと仰せられる。
それをやはり美しゅうならにゃおかげは頂かれん、和賀心になりゃあおかげ頂かれる。おかげを頂く為に和賀心になろうとする所に、おかげが思う様になかったら段々云うなら、お供えの額でも少のうなっていく様なものになるのです。私共がおかげを頂くと云うことは、限りなく信心とは美しゅうなること、限りなく和賀心を求めて行くと云う事が信心だと分かる。和賀心にならなければおかげが頂かれん。おかげを頂く為に限りなく美しゅうなろうと。だからそこ辺の所から違うて来るのですね。
私は信心と云う事に、おかげと云うものが伴う訳ですけれども、ほんとに私共が小さいほんとに物心が付く頃から、さあおかげを頂く為にお腹がせくとさぁポンポンが痛いならば御神米、ポンポンが痛いなら神様にお願いしなさいと云った様な教え方ではなくてです。もうほんとに人間はこの世に生まれて来たと云うことは、限りなく美しゅうならせげにここに来たのだ、広前に来たのだと云った様な事だけを教えて行く、方法というものはないもんだろうかと私は思う。
お参りをするでも、必ず条件がある。教会には日々有難い勿体ないのお礼参拝に、必ずお参りしなければならんものであると云う風に教え込んで行くと云う様な方法はないもんだろうか。おかげは頂かんなんから教会に参る。おかげは頂かんならんから和賀心にならにゃいかん、美しゅうならにゃならん。何とかそういうその手立はないもんだろうかと。私はそういう事にですね、気付かせて頂くと云うことが、私は今天地の開ける音を聞いて、眼を覚ますと云うことではなかろうかと言う風に今日は思います。
ほんとにそうだ、おかげを頂きたいと思うならば、改まりなさい、磨きなさいと云う様な教え方ではなくてです。人間がこの世に生まれた限り、ほんとに改まることに、磨いて行くことに、和賀心にならして頂くと云う事にです、努めることが、もう人間として生まれて来た者のこれは努めである。これを一生これを努め抜かせて頂くと云う事だという様な教え方はないものだろうか。
これは教えて頂ける事ではない教えて分かることではない。自分の心自分の命が翻然としてそこを悟った時、天地の開ける音を聞いて眼を覚ましたと云う事になるのではなかろうか。十年も参った二十年も参った、御理解も随分頂いた。言う事だけは嘘のごたる事を言い習うた。私はだから信心が出来とるとは思えない。成程おかげは頂くかも知れん。けれども天地の開ける音を聞いて眼を覚ました人の姿ではないと思う。
おかげを頂かんならんから改まる、おかげを頂かんならんから和賀心になることの、いわば研究をする。それが伴うて居る間はです、人間の奥の奥にある汚いものがです、分かっておりながらです、段々半分で良かろう、四分の一で良かろう、しまいには、まあお互い様だからと云う様なことになりかねない。そして次のおかげの頂けれる基を頂くことが出来んなりにしもうていかなければならん。
信心のね奥がある、道の奥がある。信心の道を尋ね、そして求めるとそこには結局は自分の心に期していくものだと云うことなんだ。そこを私は分からせて頂いて教えを頂いたら、その教えが、いよいよ輝かしいおかげの頂けるものになるだろう。自分方の息子だけではない、里の上にまで助かることになって来る。里までも助かる、私はその方に申しました。里が助かるち言うて分からんなら、亡くなったお父さんが、どげん喜びなさるか知れんよちまで、云うたばってん分からじゃった。
その五百万を里にやれとは言わんて。今立つか倒れるかと云う時だから、その五百万円を貸してやれと私が言う。里が立ち行くお父さんがそれこそ一生がかりで作られた、そのお店をです。ここに潰すか潰さないかと云う時ですから、ここにその五百万円あれば立ち行くと云うことだから亡くなったお父さんが、どげん喜ぶか分からんよと云うたけれど、やっぱ随分迷いはしたらしいけれどもとうとう出来なかった。
信心ちは、それでも無理をお願いすりゃ、例えばもう何年も何年も繰り返し出来なかったつが出来る。そういうおかげは頂くのですよ皆さん。だから皆さんもお話を聞きながら、はあやっぱ貸さんどって良かったたい、通ってござるけんでと言った様な思い方をした人がありゃせんだろうか。今日の話を聞いてから。だからそれではもう信心じゃないと私は言うてるんです。願えばおかげは頂くて。
けれどもおかげを頂くことが信心じゃないて。神も喜び氏子も立ち行き、金光大神をもの喜びじゃとこう仰る。金光様の信心でおかげを頂くと云うことはそういう事だと。里も立ち行き自分方も立ち行く、子供も助かったとと云う様ないわば助かり方。自分だけ助かればよいと云った様な事では、いわゆる天地の開ける音を聞いて眼を覚ました者の、思い方ではないと私は思う。
そういうだからと云うて天地の開ける音と云うか、まあそれは一つの回転音と申しましょうか、天地じゃないこの地球なら地球の、もうその回転音と云うものは、すさましいものらしいですね。余りにも大きいすさましいまでにあるから、かえってそれが聞こえないものらしいんですよね。神様がいわゆる声を大にしてです、天地の開ける音を聞いて眼を覚ませと、例えばいくら云うて下さっておってもです。
それを翻然として分からなかった。何時まで経っても信心ちゃ、おかげを頂くことだと云うことに終わってしまう。信心とは、おかげを頂かなければならんから和賀心になるのじゃない。おかげを頂かなければならんから限りなく美しゅうなると云うことじゃない。もうこの世には、ほんとに和賀心になりげ来た、美しゅうなりげ来た、清まりげ来たんだと、分からして頂き又それをです、ほんとに小さい子供の時から、何かそれを思い込ませれる様な手立はないものだろうかまあそう思います。
けれどもなかなか、それを教育したからと云うて出来るものでもないのですが結局、自分の心に尽きるのだと。信心とは本心の玉を磨くものだと、そこのところの、一事がです、翻然として自分の心に開けて居ったら、全てが解決のおかげになって来る。自分だけをいわばいよいよ見極めて行こうとすることになってくる訳です。それが分かると云うこと、それに気付かせて頂くと云うこと。随分お参りをしたけれどもおかげ頂ききらじゃったと云った様なものではなくてです。
おのが心に期して行くと言う事にならして貰った時、私は本当の信心が頂けて所謂真の信心とはそう言う様な事ではなかろうか。勿論その和賀心に限りなく美しくならして頂くその心に、そこにはまあおかげとも思わんで済むね、思わんでしょうけれど限りなく付いて来るもの。だからその思い込みがでけたら、只有難い勿体ないと云う事だけしかない世の中と云うかそういう生活と云うか、出来る事になるのでしょうけれども。
おかげを頂かなければならんから改まる、おかげを頂かなければならんから、和賀心に求めるそすとおかげを頂かんと和賀心を求めると云う事まで祈って来る。私は今日天地の開ける音を聞いて眼を覚ますと云うことは、そういう事だと云う風に、今日は思わせて貰う。そしてまあ私自身のことを思うて見る時ですたい。そりゃおかげも頂かなければならんから願いもする。
けれどもですその願いが右になっても左になってもです、矢張り自分の心にしかその結果を持ってこないで済むおかげを頂いて居るのですから、私はおかげを頂いて、天地の開ける音を聞いて眼を覚まして居る。ところがです折角眼を覚まして居るけれども、時々眠気が来てから、又だらしゅうなって来る。そういう時がですハッと云う様なお気付を頂く時じゃなかろうかと思うた。
けれどもおかげを頂いてハッと云う様にその眠気を覚まさせて頂けれると云うことが又この頃は有難いなとも思わせて貰う。どうぞさあ今日天地の開ける音を聞いて眼を覚ませと云うて覚まされるものでもありませんけれども、願いとしてです、そういう様な、本当に純粋な心の状態、ほんとに心に期していくんだと云う風に、全てが思えれるお繰合わせをです、いわゆる形のお繰合わせよりも、心のお繰合わせを願えと仰せられる。心のお繰合わせを本気で願わなければならんなと言うことを思います。
今天地の開ける音と云った様な音は、どういう音か分からない。そりゃもうほんとに難解ですねえ。この御理解は大変難しいと思います。だから私が今日申しました事は当たっていないかも知れません。けれども天地の開ける音を聞いてこれが眼を覚ましたんであろうかと言う事はです、信心の道を訪ね求めれば、おのが心に期していくなりと思い定めさして貰う、思い分からせて貰うた時こそが、心の眼が開けた時じゃないだろうかと云う風に、今日は、聞いて貰いましたですね。
どうぞ。